むかしむかし、五月(ごがつ)も終(お)わりに近(ちか)く、目(め)にしみいるような青葉(あおば)のころ、湯(ゆ)の田(だ)温泉(おんせん)に、母子(おやこ)二人(ふたり)の旅人(たびびと)がやってきました。子(こ)どもは十一歳(じゅういっさい)になる男(おとこ)の子(こ)でした。たぶん子(こ)どもが病弱(びょうじゃく)なので、この山奥(やまおく)のひなびた温泉(おんせん)に湯治(とうじ)にやってきたのでしょう。母親(ははおや)はかいがいしく子(こ)どもの世話(せわ)をし、美(うつく)しい母子(おやこ)の愛情(あいじょう)は、ほかの湯治客(とうじきゃく)からうらやまれるほどでした。そして日(ひ)一日(いちにち)と丈夫(じょうぶ)になっていく子(こ)どもの顔(かお)を、我(わ)がことのように喜(よろこ)び合(あ)いました。

ところがある日(ひ)、湯(ゆ)が突然(とつぜん)パッタリと一(いっ)滴(てき)も出(で)なくなってしまいました。「何(なに)か変(か)わりごとでもおきなければいいが、恐(おそ)ろしいことでもなければいいが」と、みんな不安(ふあん)そうに声(こえ)をひそめて、寄(よ)るとさわると語(かた)り合(あ)いました。もちろん、こんなことは初(はじ)めてのことだったからです。そして、誰(だれ)というなく「この湯(ゆ)が出(で)なくなったのはたたりがあったからだ。もし、今年(ことし)十一歳(じゅういっさい)になる男(おとこ)の子(こ)を山(やま)の天狗(てんぐ)のいけにえとしてささげれば、湯(ゆ)はもとのようにコンコンとわき出(で)るだろう」と、この山(やま)に住(す)む天狗(てんぐ)のお告(つ)げがあったといううわさがたちはじめました。

十一歳(じゅういっさい)になる男(おとこ)の子(こ)。それはこの山奥(やまおく)にたった一人(ひとり)しかいません。あの心(こころ)やさしい母親(ははおや)に連(つ)れられた、かわいい男(おとこ)の子(こ)だけです。このうわさは母親(ははおや)をすっかり震(ふる)えあがらせてしまいました。「そんな馬鹿(ばか)なことが。でも、もし本当(ほんとう)のことだとしたら、どんなことがあっても決(けっ)してこの子(こ)を離(はな)しはしない」と、不安(ふあん)と恐(おそ)ろしさにおちおち眠(ねむ)れず、何(なに)も知(し)らずぐっすりと眠(ねむ)っている我(わ)が子(こ)の身体(からだ)をしっかりと抱(だ)きしめました。

しかし、その恐(おそ)ろしいことがついに本当(ほんとう)になってしまいました。翌朝(よくあさ)になって、目(め)を覚(さ)ました母親(ははおや)のそばに男(おとこ)の子(こ)の姿(すがた)は見当(みあ)たりません。まるで煙(けむり)のように消(き)えていなくなってしまいました。「どなたか私(わたし)の子(こ)どもを見(み)かけませんでしたか。どなたか私(わたし)の子(こ)どもを見(み)かけませんでしたか･･･」と、気(き)違(ちが)いのようになって母親(ははおや)は、湯治客(とうじきゃく)一人(ひとり)ひとりにたずねましたが、誰(だれ)も黙(だま)って首(くび)を横(よこ)にふるばかりでした。

やがて、心配(しんぱい)のあまりとうとう気(き)が違(ちが)ってしまった母親(ははおや)は、「じゅういち、じゅういち･･･」とただつぶやくばかりでした。

「十一歳(じゅういっさい)になる男(おとこ)の子(こ)」、この言葉(ことば)が呪(のろ)いのように頭(あたま)にこびりついて離(はな)れなかったのでしょう。そして再(ふたた)びコンコンとわき出(で)た湯(ゆ)につかると「じゅういち、じゅういち･･･」とつぶやくような声(こえ)が、むせぶがごとく訴(うった)えるがごとく聞(き)こえ、湯治客(とうじきゃく)は、この母子(おやこ)の二人連(ふたりづ)れを思(おも)い出(だ)し、なんとも悲(かな)しい思(おも)いに襲(おそ)われるのでした。そして、温度(おんど)の高(たか)かった湯(ゆ)の田(だ)温泉(おんせん)の湯(ゆ)は、そのつぶやくような声(こえ)の呪(のろ)いで、冷(つめ)たいほどのぬるま湯(ゆ)に変(か)わってしまったのでした。

その後(ご)、母親(ははおや)は鳥(とり)に化身(けしん)し、この山(やま)にとどまり、今(いま)でも十一歳(じゅういっさい)になる男(おとこ)の子(こ)をさがしているそうです。

• 2018年11月19日
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